2014年11月5日水曜日

新装のパリのピカソ美術館を訪問 「ゲルニカ」はなかったがピカソの「朝鮮戦争に抗議した絵」があった

今回のピカソ美術館訪問で見たかった絵の一つがこの朝鮮戦争の絵であった。ピカソはこの絵を南仏のバロリスで1951年1月18日に完成させている。左側に裸の女性と子供を配した。右側には銃殺を遂行する兵士たちが描かれている。右端で剣を水平にかざしているのは隊長なのか一斉射撃で処刑しようとしている絵だ。死を前にした婦女子の表情はさまざまである。それに対し兵士たちは機械かロボットのように精神の枯渇した物体として描かれている。戦争ではいつも殺すのは男で殺されるのは女と子供たち。この絵の前に観客は一番多く集まっていたと思う。長い間時間をかけて見ていた人もいた。不思議なことに軍隊の暴挙に対する怒りよりも銃殺され殺害される婦女子への想いが強く感じられそこに平和に対する切望の共感がおこる絵だ。頭をたれて目に涙をたたえている若い女性が観客の中にいた。有名なゲルニカはスペイン戦争で独裁者フランコを批判した記念的作品だがこのパリのピカソ美術館にはない。セーヌ川の左岸のグラン・ドーガスタン通りにあった屋根裏のアトリエでピカソのゲルニカは描かれた。ここにはその時の写真が地下に展示されている。

(写真撮影は筆者)




(写真撮影は筆者)

(写真撮影は筆者)

(写真撮影は筆者)

(写真撮影は筆者)

(写真撮影は筆者)




パリのマレ地区にあるサレ館のピカソ美術館は5年間も閉鎖されていたが天井裏や地下室などが以前よりも広くなった感じでコンセルバトワールの館長の意匠なのか展示の方法も一新されている。今回のピカソ見学で私の感じたのは次の3つである。先ずはピカソの作品は芸術というよりも世界の見方考え方で物質世界や人間の精神世界の一回期性を多次元において理解しようとした人だということだ。これはあらゆるものが芸術の対象であって掛替えのない重要な一回期性の出会いでの存在であるということを彼の作品において示すことになっているのだと思う。これを理解するにはピカソの作品のすばらしさは何処にあるのかを少し考えればよいことだ。何処にでもあって誰にでも手に入るような錆びた釘や藁や木片、金属板などのコンポジィションが単なる偶然性とは言い難い彼の一回期性の作品を形成することになる。この組み合わせ、つまりそれぞれの異なる物質の各部分が初めてピカソという創作家の意匠によって、ここでだけ出会ってもう二度とない構成体の表現をなすということだ。そういう存在のあり方を我々に見せたことが西欧人としては凄いことだと思った。二つ目は初めの仮説を証明しているのかもしれないが、つまりピカソ美術館ではピカソが他の画家の作品を真似したのではなくまさしく彼の考えである一回期性においてれプリーズ(再解釈し描き直した)作品が数多く展示していたことである。最後にピカソという人物だが同美術館の入り口に飾られたいくつかの写真の中でクルーン(道化)のマスクに扮したピカソがあった。ピカソは物質世界や人間の精神世界の一回期性を多次元間の出会いという道化的存在において再解釈しなおして理解しようとしたのかもしれない。我々とはそういう存在なのかもしれないと考えさせられる展示館であった。だからピカソの道化に扮する写真を見ても絵を見てもどこか寂しい笑いしかないのはそのためなのかも知れない。以下に私の見た今回のピカソ美術館の展示作品の一部を掲載したい。


(写真撮影は筆者2014/11/2)
 多くの人で賑わう新装になってオープンまもないピカソ美術館。長蛇の列で中に入るのに私自身は1時間ほど待った。その間に私は住居不定者のような身なりの悪いしかも悪臭の漂う50代の男性と話すことになった。彼は私の少し後方に並んでいて、前列にいた2人の若い日本人女性をメモ用紙にスケッチしていて、これをあなたは日本人だろう。どうだよく似てるだろうというのである。なるほどよく似ていた。しかしこの若い女性は頭髪にシィニョンが丸く高く結ってあった。もう一人はいわゆる御河童で私にはあまりにも古風な感じがした。それよりは少し前方にいる中国人の学生カップルの2組は非常に綺麗で高価そうな身なりを男も女もしていたので、なぜ彼らを描かないのかとこの住居不定らしき男性に聞いた。彼は品のよさとか女性らしさが異なるのだというのである。日本の平安時代の絵にある女性の顔立ちだというのであった。この男性とはピカソ論議もやった。それにしても凄いにおいなので周囲の人々も私も少し参ってしまったが、いろいろ知っている人であった。ピカソが日本画を研究したのかどうかはここでは話題にでなかった。


(写真撮影は筆者)

母と子供の絵。アフリカのマスクの影響が感じられる。このような色の配色は印象派などよりも精神世界の不思議な神秘性が浮き出てくる。ある意味では中世的な色使いとアフリカ的な形の原始性に頼っている絵でもあるかもしれない。



(写真撮影は筆者)



(写真撮影は筆者)








(写真撮影は筆者)
ルイ・ルナンの絵を彷彿させる。ルナンの絵(ルーブル美術館)では貧しい農村の生活風景を描いた17世紀のプロテスタントの思想を表していると思える。少年が笛を吹いていて静かな絵だがそこに高い精神性を感じる絵だ。ピカソはそういう人間の思想性の深いところを狙って描くことをした画家ともいえるのだ。


(写真撮影は筆者)
 ピカソの息子のポール。じっとしてないのでモデルとしては少年は不向き。足が3本あったりする。椅子の手前の足の右側にポールの足がデッサンではあった。私がピカソを「一回期性の芸術家」というのはこういうことでもある。そしてこの絵は未完成のようにも見えるがそうではないということが、これまた一回期性を尊厳する彼の主張なのであると考えた。

(写真撮影は筆者)
 オルガ婦人の肖像だが、椅子にもたれて立っているのか座っているのかわからない絵だ。これはセザンヌの作品でオルセー美術館にある「カフェチエーの前の青い服を着た女」とよく似ていると思う。

(写真撮影は筆者)
 絵と造形の境がわからなくなっているのがピカソでは特徴的なことだ。










(写真撮影は筆者)
 マリーテレーズの肖像だと思う。印象派の色彩分割理論やおそらくは幾何学文様などの組み合わせで不思議性を創出した。両眼の位置や手を変形させることで内面の精神性を演出させている。しかもそれにはモデルは女性のほうが好都合なのは当然である。逆にそこに芸術での性的差別があるのであろうがピカソはこれをあえて問うことはしなかったようである。




(写真撮影は筆者)
 ドラマー婦人。私のもっとも好きな絵のひとつだ。





(写真撮影は筆者)

何処にでもあるような荒削りの木片に色を塗り、釘を並べ人型を象徴した組み立て。さまざまな物質の一回期でしかない出会い、コンポジィションの遭遇がここにある。


(写真撮影は筆者)



(写真撮影は筆者)
 ピカソの作品では闘牛とか馬とかヤギは重要だ。これらの象徴的意味は理解する必要があるが、それは次回に論じたい。













(写真撮影は筆者)
このヤギを抱いた人の彫刻と、骸骨と皿の上に乗った目の絵(下に掲載)の二つだけが、小さな薄暗い部屋に置かれていた。暗い時代の絵ということか。
(写真撮影は筆者)


(写真撮影は筆者)

今回のピカソ美術館訪問で見たかった絵の一つがこの朝鮮戦争の絵であった。ピカソはこの絵を南仏のバロリスで1951年1月18日に完成させている。左側に裸の女性と子供を配した。右側には銃殺を遂行する兵士たちが描かれている。右端で剣を水平にかざしているのは隊長なのか一斉射撃で処刑しようとしている絵だ。死を前にした婦女子の表情はさまざまである。それに対し兵士たちは機械かロボットのように精神の枯渇した物体として描かれている。戦争ではいつも殺すのは男で殺されるのは女と子供たち。

この絵の前に観客は一番多く集まっていたと思う。長い間時間をかけて見ていた人もいた。不思議なことに軍隊の暴挙に対する怒りよりも銃殺され殺害される婦女子への想いが強く感じられそこに平和に対する切望の共感がおこる絵だ。頭をたれて目に涙をたたえている若い女性が観客の中にいた。

有名なゲルニカはスペイン戦争で独裁者フランコを批判した記念的作品だがこのパリのピカソ美術館にはない。セーヌ川の左岸のグラン・ドーガスタン通りにあった屋根裏のアトリエでピカソのゲルニカは描かれた。

(写真撮影は筆者)










(写真撮影は筆者)

この絵の前に観客は一番多く集まっていたと思う。長い間時間をかけて見ていた人もいた。不思議なことに軍隊の暴挙に対する怒りよりも銃殺され殺害される婦女子への想いが強く感じられそこに平和に対する切望の共感がおこる絵だ。頭をたれて目に涙をたたえている若い女性が観客の中にいた。










(写真撮影は筆者)
エドガー・マネの「オリンピア」のレプリーズで、マネが再解釈して描いたもの。




(写真撮影は筆者)

 エドワード・マネの「草上の昼食」のピカソ的なレプリーズ。これはクロード・モネもやっている。これはいろんな人がやっていてベネチア派の絵画がモデルになったりしている。これはコピーではぜんぜんない。人生のそして芸術の一回期性を題材にすればこうなるというものである。ピカソの作品の特徴は古典派の人たちを異なっていて、印象派がキャンパスに絵を描かなかったことに関係していて、ピカソにおいては鑑賞者はその一回期性においてその見る個人の網膜に映る色や型ちをさまざまに感じとるのである。

(写真撮影は筆者)
ピカソ美術館の三階から裏にある公園を望む。







セザンヌの水浴は安定した三角形構図で有名だ。三角形を複数に配することで膨らみや厚み奥行きの立体空間を実現している。遠近法の視覚焦点主義の窮屈さから開放された人間の自由な眼でえがかれている。






(写真撮影は筆者)

(写真撮影は筆者)

現代絵画の父と称されるセザンヌの作品は以下の写真掲載でもわかるように、イタリアのベネチア派の影響を受けたと理解できるところがある。正面からだけ見るのではなく左右から見ても面白い。ダヴィンチ以来の近代絵画を風靡した遠近法の窮屈な約束事から開放されて、静止した画面がここでは取り払われている。すばらしい広角レンズを持つ自由性の高い絵画が実現している。









(写真撮影は筆者) ドガのデッサン。
娼婦の家を描いたもの。線の強弱による量感と動きの創出が凄い。








(写真撮影は筆者) 
シャルダンの絵はオルレアン美術館に数多くある。絵は暗い
が白による光の創造。そしてなんといっても立体感のある厚み
とボリュームを遠近法とは異なる方法で作り出して見せた
ジャン・バプティスト・シメン・シャルダンの力量は凄いと思う。






(写真撮影は筆者)
 モディリアニーの絵は首が長い、身体も細長い。この写真はわざと斜めに撮ったのではない。人を見るときにもしも人の顔が斜めに傾いていれば見る人はその顔を縦に見ようとするということである。この頭部の傾きをさらに強調しているのが画面中央部の水平線の傾きである。この絵はいろいろと傾きが仕組まれていて美しい女性の絵ではあるが不思議な静けさと神秘性を漂わせている。


(写真撮影は筆者)

 デュランの絵で、まったく宗教性に満ち満ちた作品だ。印象派ではこれは無理だろう。下の絵も同じくデュランの作品。