2015年8月8日土曜日

牧口常三郎の創価学会に反戦思想は無く 有るは軍国主義迎合の転倒解儀の狂言読み

これが戸田城聖が誤って「法華経」を読み損ねた

有名な「獄中の悟り」が書かれている「人間革命」

(精文館書書店 昭和32年7月3日発行)で戸田

城聖が生きているうちに発刊されているものだ。

「妙悟空」は戸田城聖のペンネームである。

この戸田城聖の「人間革命」は様々に弟子たちに

よって中身が書き変えられて出版されている。

創価学会が反戦・反核の団体だという認識の誤りが今度の戦争法案で「創価学会=公明党」が安倍晋三首相の好戦法案を支持したことで明らかになった。創価学会・公明党内部にこのことで亀裂ができているらしい。しかしその思想的転向は今の池田大作だけに原因しているのではなくて、牧口常三郎の時代の創価学会にすでに反戦思想などは存在して無かったのである。戸田城聖の書いた「人間革命」を基に同氏の描く牧口常三郎像を検証してみたい。私の感じたのは次のことである。創価学会の誤りというのは、一字一点の狂いであり、経典の狂い読みであったということだ。あるいは、意識的にこの一字一点に取り入って、削り捨てあるいは摂入して、上下を変え左右を引き換えて意味を違え転倒解儀した狂言読みの法門を作った邪儀・邪説の原型であったということである。これは全く恐ろしい事である。宗教や思想を相手にする者はこのことを愚かに考えてはならないだろう。(パリ=飛田正夫 2015/08/08 18:08日本標準時 )

創価学会の戦争史観というのも、池田大作氏に始まったのではなくて、既に初代創価学会会長の牧口常三郎や第二代創価学会会長の戸田城聖の考えの中に存在していたことがわかる。戸田城聖氏が「妙悟空」のペンネームで書き後書きや目次には戸田城聖の名前が入る「人間革命」(精文館書書店 昭和32年7月3日発行)が上梓されていた。これを創価学会は隠し相似の改変版を戸田城聖全集(第四巻 和光社 編集兼発行者 池田大作 昭和40年12月10日発行)に載せている。

この戸田城聖の「人間革命」は最近では、更なる改変版が出たらしい。ここではその比較は別の機会に譲って、戸田城聖氏が亡くなる前に出版された「人間革命」(精文館書店 昭和32年7月3日発行)の初版にあたり論じることにした。



戸田城聖が妙悟空のペンネームで書いた「人間革命」
の目次でここに、章として「人間革命」がり、あとがきに
創価学会第二代会長の戸田城聖の名前も出ている。

戸田城聖が妙悟空のペンネームでかいた「人間革命」
精文館書店、昭和32年7月3日発行の奥付 



戸田城聖の書いた「人間革命」の目次で、最後の章が本全体のタイトルとなっている。「あとがき」には戸田城聖の著者名が見える。
説明を追加




ここでの「癌さん」というのが戸田城聖自身であり「人間革命」の主人公である。読んで分かるように戸田城聖は第二次世界大戦に反対などしてはいないのである。むしろ宗教界の混乱のまま「和がなくては、いくら総力戦を叫んでも力は涌いてこない」と言っている。この筋で牧口常三郎が軍国主義政府に国家諌暁をしようとしていると戸田は見ているわけで、「宗教の力でこそ、この戦争に打ち勝てる」という認識だ。創価学会の反戦主張が存在することはここからは到底汲み取れないのである。戸田はここで、「われわれが支那大陸の地下工作にまで乗り出そうではないか!」と言っている。












ここに登場する森田正一とは森田一哉のことだと言われている。戦争に出征する森田が「赤襷(あかだすき)をかけて座っている」正一に、牧田城三郎(文字通りだが、これは牧口常三郎のことだ)が、「森田君、しっかりやつてきて下さい。」と激励している。引用している日蓮大聖人の御書の理解でも牧口は、「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲がれば影なゝめなり」(「諸教と法華経と難易の事」 平成新編日蓮大聖人御書 1469頁)の御文を勝手に私に解釈している。

つまり「仏法は体のごとし」のことを「今の日本」の事だと取っているわけだ、これは逆さま読みもいいところだ。そうではなくて日蓮大聖人は「仏法という体が曲がっている」と言われていて、世間や日本が曲がっているということが体であるとは言ってないのである。こういう読みが創価学会は池田氏も「立正安国論」でやったわけで、ここにおいても牧口常三郎氏も転倒読みをしているのである。だから影は当然のことなゝめになるわけだ。







牧田城三郎氏の戦争観と信仰観の理解になる箇所だ。森田氏への牧田の激励は「前線で悔いのない働きをして下さい」であった。牧田は戦争否定などしていないのである。牧田城三郎は、「仏法が乱れて体の曲がっている日本、歪んだ影の国民の間に」と言っている。そして、「それでは勝てない」という。仏法とは戦争で勝つ為にあるような牧田の認識である。


戸田の「人間革命」で描く牧口常三郎氏はここにおいて、国家諌暁の意味が歪曲されて使用されているようだ。牧口は、「国家が、この大戦争をするに当たって、」と言っている。そしてしばしばとり沙汰されるところであるが、創価学会が、一宗派の生存ではなく日本国家の荒廃に重心を置いた思考が、この戸田城聖が牧田の言葉として語らせたこの一文、「万一、日蓮正宗が潰れたとしても、」「仏法の力によって国家が立ち上がれば、大聖人はお喜びになりましょう!」これはなんとう、「立正安国論」の「客人」=法然流の逆立ちした仏法の読み方なのかということです。

「立正安国論」の「主人」の主張とは仏法の棟梁を明らかにし、仏法の高低浅深を糾すことであり、これが日蓮大聖人の立正なのである。いわゆる仏法一般によってというのではないのである。正しい仏法である日蓮正宗の正義を顕わすことにが「立正安国論」の主張なのである。

このところを戸田城聖も牧口常三郎も誤ってしか読めなかったのである。 だから、「万一、日蓮正宗が潰れたとしても、」「仏法の力によって国家が立ち上がれば、大聖人はお喜びになりましょう!」などと言う可笑しな解釈しか出てこないのである。ここに国家主義的な思考の下に仏法の正義を置き隠す誤りがある。