2016年8月12日金曜日

「繋げる」とか「繋がる」が問題になるのは、分離した状況を前提にするから

「繋げる」とか「繋がる」ということが問題になるのは、分離した状況を前提にするからです。宗教なりの教えが高くなってゆくと、この差別が無くなって平等になっていくのです。様々な教えの違いには、女性は救えるのか悪人だけを救うのか、二乗は嫌われる教えなのかといった、宗教や教えによった救済力の違いがあり、その原因は法門や教えの内容によるわけです。

ですから教えが低いと差別が説かれているために、「繋げる」とか「繋がる」ということが問題になるのです。教えが高い経典を所持していれば、差別が無く平等大慧なので分断がないために、新たに何かに「繋がったり」、何かを「繋げる」必要がないのです。

創価学会の場合でいれば、彼等の教義が日蓮大聖人の三大秘法の仏法を保つ日蓮正宗を離れた為に、それに代わる、「宇宙根源の法」の邪説を持ち出す必要があったとも言えるのです。それにしがみついて、そこに「繋がろう」とする教えになるわけです。何かが不足し何かが欠けている場合には、こういう「繋がり」の法門を造作するのです。