2016年8月11日木曜日

釈尊の成仏と、念仏・法然の極楽往生、キリスト教の神の国とは、「同じ」でなく「繋がって」はいない

修行と成仏が問題なのでしょう。この修行に様々なものがあり、即身成仏もあり、また「歴劫修行」・「次第梯橙」という成仏観もある。しかしながら、成仏の種因を明かさないで、修行そのものを目的に転位させた禅みたいのもあるのです。ですから、これは釈尊の仏教とは修行の意味や目的が変わっているということなのです。成仏観や往生観もしたがって変わるのです。ですから、繋がるというのは幻想であり真実の眼を塞ぎ隠して言っているに過ぎないのです。入り口を誤ったために、それに気づきながらも、そのまま何時かは何処かで繋がるだろうと思って、あるいは思わされて修行を続けても、繋がらないどころか全然別な所に連れていかれてしまうということでしょう。釈尊のいう成仏と、念仏・法然のいう極楽往生、キリスト教でいう神の国というのは「同じ」で「繋がって」 はないのです。


これ等を平等に並べ同じる見方、今は別々だがいつかはこれらは、一つに繋がるのだとして考えることが誤まりのはじまりなのです。