2016年8月8日月曜日

広島に原爆投下の責任は 落とした本人

この問題は責任者は誰なのか?とやると駄目なのです。落とした人が悪いのです。たとえそれが将校であろうと一兵士であろうとです。そのうえで米国なり大統領なり軍が裁かれればよいのです。これを逆さまにやると、民主主義は成り立たないのです。戦争になれば民主主義はないのだというのが可笑しいのだと思います。人権を尊厳するために暴力と闘う戦争なので、暴力と虐殺が目的の戦争だと勘違いしている人は、政府や大統領や責任命令系統がどうのこうのいうのです。それは逆さまのなのです。一人の人間に総てが責任があるから民主主義は重いのです。ロボットの様な人間だと考えているから民主主義が破壊されているわけです。ですから人間は産業化した戦争の中では単なるピエスの一部品に過ぎないのであって、ナチスにしても、アイヒマンも単なる組織の命令に従った哀れな犠牲者なのであると見てしまうと、これではハナ・アレントのようになってしまう。「凡庸なる悪」を認めてしまうのです。つまり大殺戮を認めることになるのです。

そうではなくて、この一部品がノンという時に戦争がストップするわけです。原爆だって堕ちなくてすむわけです。落とした人がこれを許してしまったのです。

フランスのストライキは飛行場にしろバガージュ担当者がストするだけでエアー・フランスのパイロット組合(SPAF)がストするのと同じ効果があって、飛行機が飛ばないのです。

私の家の洗濯機が先週、プログラムの故障をおこし、ピエスを買い求めて、修理しなければ動かなかったのです。

ナチスの戦争組織をその工場産業化した中での個人に注目する人もいるが、一人の人間がノンといって命をかけて反対すれば戦争や殺戮は止められるのです。民主主義の重さがそこにあるのだとおもいます。立場ある人ならばもっとも当然なのですが、そういう人達はやらないのです。政治家や天皇ならノンと戦争を否定すべきなのです。それをやらないことは、民主主義に於ける個人の失格です。そういう人が多くなると戦争が始まるでしょう。