2016年12月30日金曜日

新年のはじめを祝うとは「法華経」をもてなす心の事

(パリ=飛田正夫 日本時間‎30/‎12/‎2016;‎‎14:25:仏時間30日06:25)日蓮大聖人の「御書」(平成新編1551頁)に「十字(むしもち)御書」というのがある。新年の初めにこの御書を拝読するのが年の始まりの行事のようになって久しい。その冒頭に「十字一百まい・かしひとこ給び了んぬ。正月の一日のはじめ、としのはじめ、月の始め、としのはじめ、春のはじめ。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつるがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさりひとにもあいされ候なり。」とあり、ここで「此を」と言われていることは長い間、私は「元三の志し元日にも超え」などと言われることから、これは正月はじめのことであると思っていたのです。そういう意味も確かにあるだろう。しかしここでの「此をもてなす人」の意味は「法華経をくようしまいらせんと」する人の心のことであると思ったのである。この「はじめ」とは、本因妙の「法華経」のことであって、結果良ければすべてよしとする年末を祝うキリスト教の祭りや外道や偽仏教の教えには無いことだということである。本因とは因果でいう所の原因を大切にする下種仏法のことでもある。そいういう意味がこの「十字(むしもち)御書」にはあるのだと拝したい。したがって「今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此れをもってをもうに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来るべし。法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。又々申し候べし。」(1552頁)とあり、外からわざわいを集める国があるというのである。


これは「法華経」の神髄である日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の三大秘法の大御本尊を否定して偽物を作り祭っている「創価学会・公明党」=「自民党」という日本の誤れる構図が、世界からわざわいを集めて来るということである。また世界にあってはヨーロッパなどでも日蓮大聖人の「法華経」を正しく広めない人の国というのは災いが来るというのである。しかしこの日蓮大聖人の言葉を信じない人は多いのである。

どうしてかというと、フランスの或る者は我々が「法華経」を批判するにも「法華経」の教えなどは過去にも現在にもフランスの歴史に存在しなかったので、無いものを批判できないのだから先祖にも我々にも法華誹謗の罪はあり得ないのであって、わざわいは起こらないのだと主張してきたのであった。今、我々の周囲を見てみるとフランスもドイツもヨーロッパはテロに恐怖する姿というものがあるのである。異常気象で冬に雪が降らないとか、穀物が不作になったり流行病が蔓延している姿は、法華誹謗の現れなのであると考えられる。それは日蓮大聖人がいわれるのには、世界の善言というのはこの経つまり「法華経」から出ていると言われているからである。

ここが凄い所であり、十万法蔵の教えも但一経を源流としているということなのである。何故、人間の命を尊厳しなければならないのかは誰にも今の世界の宗教や道徳や芸術ではわからないし、語ってもいない、説明もできないのである。

但し様々な人がこの法華経の深い教えを手本として、あるいはその支流を汲んで片端し片端し善言の一部を説いてきたのである。そこには不完全だが一応の人間愛とか慈悲の教えが説かれている場合もあるが完全ではなく、多くの場合は都合にあわせて説く者達が自分の広めたい法門や理論に一部を擦り込んでそれを使用している為にメッキが剥げる時が来るのである。日蓮大聖人はこの「十字御書」で「影は体より生ずるもの、法華経を敵とする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来るべし。」(1552頁)と言われたのはそういう仏法の味わいを盗み入れて他の教えに擦り変えてわざわいを作る人が居るために、その影がテロリズムや戦争・災害・疫病等となって今の社会に顕わていると示されているのだと私は拝したい。